
ジェイソンと呼ばれた男!?元サッカー日本代表・田坂和昭さん(前編)
みなさんこんにちは。
スキンヘッド歴16年の太田政晴です。
バリカンの坊主を経てスキンヘッドになってから、現在は週に2回、年間で100回頭を剃っています。
今回も今までの検証とは違い、スキンヘッドのプロと言っても過言ではない私が、スキンヘッドの有名人の自叙伝のレビューをしていきます。
その有名人は、元サッカー日本代表の『田坂和昭』さん。
自叙伝のタイトルは『負けずじゃけん。』(枻出版社)

今回もスキンヘッドの有名人の自叙伝のレビューを書くので、とても楽しみです。
田坂さんがなぜスキンヘッドに至り、どうやってそれを克服したのでしょうか。また『ジェイソン』と呼ばれた理由は何でしょうか。とても興味が湧きます。
スキンヘッドの有名人の生き方から、薄毛に悩む人へ共感と勇気を与えるレビューを書くために読んでみました。
田坂和昭さんの経歴
1994年にベルマーレ平塚でプロデビューを果たし、日本代表を経て現在は栃木SCで監督を勤めています。
生年月日:1971年8月3日生(49歳)※2020年10月現在
出身地:広島県広島市
ポジション:MF
所属クラブ
- ベルマーレ平塚(1994〜1998)
- 清水エスパルス(1999)
- セレッソ大阪(2000〜2002)
代表歴:1995〜1999
監督歴
- 大分トリニータ(2011〜2015)
- 清水エスパルス(2015)
- 福島ユナイテッドFC(2017〜2018)
- 栃木SC(2019〜)
受賞歴:Jリーグ新人王(1994)
視線との戦い——赤い帽子のガキ大将

田坂さんは、物心ついたときから『先天性無毛症』という病気でした。
毛を生やす遺伝子の欠落により、毛が生えなかったりごくわずかしか生えない病気です。
なので、幼稚園の頃から常に帽子をかぶっていました。帽子は地元広島の広島カープの赤い帽子です。
人の視線が気になり、誰も見ていなくてもいつも周りの人から見られている気がしていました。
特に子供はストレートに残酷なことを言ってくるので、帽子をかぶり続けていました。
幼稚園の頃、田坂さんはこう考えていました。
「いまは帽子をかぶっていられるけど、大人になったらどうすればいいんだろう?」
(本書・P.26より引用)
すでに幼稚園の頃に毛が無い状況に絶望していたことがわかります。
親御さんも田坂さんのことを心配し、小さい頃から色々な病院に連れて行きました。評判の病院に連れて行かれ、頭に注射を打たれたり、美容院でお釜をかぶったりと、噂レベルのものも合わせて数えきれないほどの治療を試していました。
ただ、近所の子供たちの間ではガキ大将でした。
どんなことでも負けるのが絶対に嫌いでしたので、遊びでも何でも、友達にも家族に対しても、負けると泣きながら怒っていたそうです。
田坂さんはスポーツ万能少年で、何でも1番だったので、特に周りからいじめられるようなことはなかったそうです。
誰よりも1番になることが、精神的に無毛症に立ち向かうための心の支えになると知ってからは、自分から相手に向かって行き、誰からも何も言わせないくらいになってやろうと頑張ります。
そして小学3年生の頃、サッカーと出会います。
スポーツ少年団の『可部FC』に入団し、抜群の運動神経と無類の負けず嫌いのおかげで、わずか1ヶ月で6年生のチームに加わり、『可部FCの田坂』は要注意FWとして有名になります。
対外試合でも実力を発揮し、小学3年生にしてサッカーで一目置かれるようになります。
その後5年生で県大会優勝、6年生では市内の選抜チーム『広島FC』に選ばれ全国大会に出場し、田坂さん個人では大会優秀選手として表彰されます。
心境の変化——もっと上手くなりたい

中学生になると、ナショナルトレセン(全国選抜)に選ばれるようになり、自分よりサッカーが上手い選手がいることを知ります。
サッカーで初めての挫折を味わうかと思いきや、田坂さんは「こいつらには負けたくない」と負けず嫌いを発揮します。
中学生の時に地元広島で所属していたのは『大河FC』という少年団で、中学校の部活とは違い、広島県内の優秀な選手が集まっていました。
大河FCからサッカーの名門・静岡の東海大一高校(現東海大翔洋)へ進学することを決意します。
『サッカーの田坂』として有名になれば、変な奴だとコソコソ後ろ指を指されることもなくなる。どうせ指を指されるなら、有名になって指されたい。
(本書・P.44より引用)
『サッカーが上手くなりたい』
『後ろ指を指されたくない』
田坂さんの人生において大事な2つの条件を満たす高校が、東海大一高校だったのです。
田坂さんは中学卒業後、迷わず静岡へと旅立ちます。
初めての挫折——でも気持ちが薄れていく

東海大一高校に入学した田坂さんは、サッカー王国静岡の洗礼を受けます。
同級生や先輩後輩、静岡市内の他校の選手の中には、後のJリーガーや代表選手がたくさんいました。
そんな過酷な環境の中でも、田坂さんは1年生からレギュラーポジションを獲得します。
ところが、身体に思いがけない異変が起きます。
動くと足が痺れて走れなくなってしまったのです。
そのときは学校のマラソン大会で倒れて、救急車で運ばれてしまいます。
原因は貧血でした。
高校に入学して寮生活を始めて、夜中に間食したり、好き嫌いで偏食をするようになっていたのです。
そこから田坂さんは生活の改善に取り組みます。
食生活を改めて筋トレを行い、プロテインなどのアスリートに必要な栄養素を積極的に摂取し、好き嫌いをなくすように努めました。
しかし体調は回復しましたが、貧血が原因でレギュラーを外されてしまいます。
しかもその年、田坂さんのいないチームは静岡県代表として冬の全国高校選手権に出場し、決勝まで進みます。
これが初めての挫折でした。
結局高校の3年間で1度も全国大会に出ることはありませんでした。
ただし年代別のユース代表には選ばれていたので、雑誌には写真が載るようになります。
そして心境の変化が起こります。
そのうち病気のことより、「うまくなりたい」という思いの方が強くなっていった。後ろ指を指されないように有名になりたい、という動機はどんどん小さくなった気がする。
(本書・P.54より引用)
あれほど強かったコンプレックスも、徐々に気持ちが薄れていきます。
それは、挫折はあったものの当初の『サッカーの田坂で有名になる』という目標を達成していたからでした。
サッカーでトップレベルに立ったという事実が、田坂さんに自信を芽生えさえ、それゆえにコンプレックスが薄れていったのだと思います。
見た目がジェイソン——プロデビュー2戦目の出来事

高校卒業後は東海大学に進学し、1年生から試合に出場し、4年生のときはキャプテンを務めます。
ちょうど4年生のときにJリーグが誕生し、いくつかオファーが来たチームの中から、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)への入団を決めます。
田坂さんはついにプロサッカー選手になりました。
幼少期からのコンプレックスをサッカーで証明する20数年でしたが、『後ろ指を指されたくない』を誓ってここまで辿り着きました。
そしてJリーグデビューの開幕戦にスタメンとして出場します。
しかしプロデビュー2戦目、試合中にチームメイトと激突して顔面骨折の大怪我をしてしまいます。
とりあえずピッチには戻りましたが、防護用のフェイスガードを着用していたため、その見た目からジェイソンと呼ばれるようになります。
一般に広く認知される前のデビュー2戦目の出来事だったので、このことで知名度が上がり、ジェイソン姿のカードがJリーグチップスのおまけのJリーグカードに採用されるまでになります。
結局この年は、プロ1年目でリーグ戦35試合出場、チームとして天皇杯で優勝します。
そしてその活躍が認められて、Jリーグアウォーズで新人王を獲得します。
日本代表デビュー——聖地ウェンブリー

プロデビューからリーグ戦にフル出場し、ベルマーレ平塚にとって不可欠な選手になるには、それほど時間がかかりませんでした。
そしてプロ2年目、ついに日本サッカーの最高峰である日本代表に選出されます。
しかもこの年は日本代表の遠征でサッカーの母国イングランドに行き、『サッカーの聖地』と呼ばれるウェンブリー・スタジアムでイングランド代表と試合をし、スタメンで出場します。
1995年6月3日 アンブロカップ
田坂さんからのメッセージ——同じ病気で悩んでいる方へ
『ー伝えたい。 いつか言わなければならないと思っていました。 これまで、同じ病気で苦しんでいる方々からたくさんの手紙をいただいていました。 しかし、何も返事ができぬまま、ずっと心に引っ掛かっていたのです。 そんな方々への返事として、そして、これまで自分に関わったすべての皆さんへのお礼の気持ちを込めて』
(本書 まえがきより引用)
この自叙伝を出版するにあたり、田坂さんが相当の覚悟を持って過去をさらけ出したことが伝わってきます。
スキンヘッドのプロの僕はこう思った
田坂さんがサッカーによってコンプレックスを取り払い、自我を確立していった物語は読んでいて感動しました。
特に印象的だったのは、誰にも陰口を叩かれないようにサッカーで1番になることが、救いだっただったことです。
誰からも後ろ指を指されないために徹底的にサッカー打ち込む姿勢は、自分が薄毛で悩んでいるときに仕事を徹底していたときを思い出し、共感しました。
「無毛症があったからここまで頑張れた」なんてことはとても言えません。そうなると、頑張るためには無毛症が必要だったということになってしまうからです。
田坂さんの全てをさらけ出す姿勢にスキンヘッドの方は感動し、そうでない方は無毛症で悩んでる方を理解するきっかけになったのではないでしょうか。
今回は前編として、田坂さん自身の心情を時系列を追って書きました。
次回は後編として、両親やサッカー関係者からの証言を元に、他の人から見た田坂さんを書きたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。