
16連射に隠された秘密とは!?プロゲーマー・高橋名人
みなさんこんにちは。
スキンヘッド歴16年の太田政晴です。
バリカンの坊主を経てスキンヘッドになってから、現在は週に2回、年間で100回頭を剃っています。
今回もスキンヘッドのプロと言っても過言ではない私が、スキンヘッドの有名人の自叙伝のレビューをしていきます。
その有名人は、プロゲーマーの『高橋名人』。
自叙伝のタイトルは『高橋名人のゲーム35年史』(ポプラ新書)

日本のプロゲーマーの先駆者の高橋名人は、ゲーム業界では有名人です。
テレビへの露出やタイアップゲームなども発売されていたので、40代以上の方にとっては、一時期、とても馴染みのあった存在ではないでしょうか。
今回は、一サラリーマンだった高橋名人がどのようにして「名人」と呼ばれ、ちびっ子の心を掴むようになったのか、ご紹介したいと思います。
高橋名人の経歴
本名:高橋利幸
生年月日:1959年5月23日生(61歳)※2021年1月現在
出身地:北海道札幌市
所属事務所
- Be.Brave Group
- アミュレート
職業
- 株式会社ドキドキグルーヴワークス取締役
- 一般社団法人e-sports促進機構代表理事
肩書き
- プロゲーマー
- ゲームプレゼンター
ハドソン入社!きっかけは?

高橋名人のゲームとの出会いはテーブル型のインベーダーゲームでした。19歳の喫茶店バイト時代に遊んでいたそうです。
当時はゲームよりもパソコンに興味があり、当時の手取りの3倍以上するパソコンを買って、自宅でプログラミングするほどでした。
それからますますプログラミングにのめり込み、1982年にハドソンに入社します。
ファミコンは1983年発売なので、ファミコンがきっかけで入社したのではありません。
ハドソンの本社は高校時代の通学路の途中にあり、当時から大企業としてパソコン業界で有名でした。
高橋名人は憧れを抱いていましたが「入社するのは無理だろう」と思っていました。
しかし、当時働いていた会社の同僚から「今日ハドソンの面接に行くけど、おまえも来る?」と言われ面接に行き、友達は不採用、高橋名人は採用になるという奇跡が起こります。
ハドソンに入社してから1週間もしないうちに、「お前今日東京来れるか?」と社長に言われ、北海道から上京し、そのまま30年、東京に居続けることになります。
高橋名人誕生!——きっかけはイベント参加

入社時、営業担当だった高橋名人は、1年後に企画宣伝部に異動になります。
ちょうどこの頃、1983年にファミコンが任天堂より発売されます。
当時ゲームができたコンピュータは、約6万円のNECのPC-6001だけでしたが、ファミコンの価格はその1/4の約15,000円だっということもあり、その年の大ヒット商品となりました。
そこでハドソンでもファミコン用ゲームソフトを作ることになり、『ロードランナー』と『ナッツ&ミルク』を開発することになります。
ロードランナーは開発元のブローダーバンドのゲームソフトで、これを移植するときに1画面で表示するとキャラクターが小さくて見えづらいので、スクロールさせることにします。
当初は開発元から反対されましたが、子供向けのゲームはスクロールしてアクション性を持たせた方がいいと説得し、高橋名人の案が採用され、発売されました。
結果100万本を超える大ヒットとなり、ハドソンのそれまでの年間売上げをこの1本で超えてしまいました。
当初『ロードランナー』と『ナッツ&ミルク』はテレビCM中心のプロモーションでしたが、『コロコロコミック』でのプロモーションも開始しました。
『ロードランナー』の続編である『チャンピオンシップロードランナー』の攻略方法は、分解写真が1ページ掲載され、小学生は夢中になって読んだそうです。
高橋名人曰く、これが最初のゲーム攻略本になったとのこと。
突然のイベント出演。頼みの綱は1台のパソコンだけ!
当時、コロコロコミック主催の『コロコロまんがまつり』というイベントが開催されていました。
ここで突然、発売前の『チャンピオンシップロードランナー』のゲーム紹介を高橋名人が担当するよう命じられます。
何をすればいいかわからず戸惑っている高橋名人に、上司はこう言います。
「自分で考えろ、でも予算はない!ただモニターは用意してくれるからファミコン持っていくだけで大丈夫!」
(本書・P.38より引用)
そこで高橋名人は『チャンピオンシップロードランナー』を解説しながら実際にプレイしました。全てクリアしたことで会場中から拍手と歓声が起きました。
イベントが終了しても子どもたちの熱は冷めやらず、イベントの撤収をしているときに高橋名人のサインを待ちをしている子どもたちが会場の中をチョロチョロとしていました。
それを見かねて、急遽サイン会を開くことになりました。
集まった子どもたちの数はなんと、200人!
これは後に『高橋名人のサイン会』としてイベント終了後の名物コーナーになりました。
このイベントが全国で開催されるハドソン公式ソフトのゲーム大会『ハドソン全国キャラバン』の誕生のきっかけになるとともに、ハドソン社員の高橋利幸さんが『高橋名人』として誕生した瞬間でした。
16連射!——高橋名人とスターソルジャー

その後、ハドソン全国キャラバンは1985年〜2006年まで続く一大イベントとなります。最初の頃の有名な高橋名人のエピソードに『16連射』があります。
誕生のきっかけは、初代キャラバンに参加していた子供から「名人はラリオス(スターフォースに登場する中ボス敵キャラ)を倒すのが非常に速いけど、いったいどんなスピードで打っているんですか?」という投書でした。
当時は連射速度を測る機械がなかったので、ラリオスを使って測ることにしました。
ラリオスはコアが白く光ってから合体するまでの1秒間に8発の弾を撃ち込むとボーナスポイントが得られます。
コアが白く光る前に8発撃つとボーナスポイントには加算されず、合計16発撃たないとボーナスポイントが得られないことを利用し、1秒間に16発撃つことが確認され、16連射となりました。
高橋名人が『16連射の人』としての認知が広まった理由は、全国キャラバンのデモンストレーションがあったからです。
子ども達の目の前で実際に16連射でハイスコアを取ることにより、一気に広まりました。
これは高橋名人の生涯の武器となります。
1986年のハドソン全国キャラバンは『スターソルジャー』の大会でした。
ここで高橋名人の知名度が一気に上がります。
僕も当時、テレビの映像で見たことがありましたが、シューティングゲームで1位を決める大会の規模の大きさに驚いたものです。
16連射を駆使して解説しながらステージクリアをしていく姿は、単純に格好良いと思いました。
高橋名人逮捕?——噂の真相

『高橋名人逮捕説』が出たのは1986年の秋頃でした。
「今度一日警察署長をしに行くかもしれないよ」
(本書・P.102より引用)
あるイベント会場のフリートークで話した内容について、よく聞き取れなかった子どもからイベント営業所に問い合わせが来ました。
子どもが「高橋名人が警察署に行くって本当ですか?」と電話と尋ねたところ、電話口の担当者は「調べてみます」と返事をしたそうです。
否定されかったことで、子どもたちの間で『どうやら本当に警察署に行くらしいという話が広まりました。
そこから『なんで警察に行くのだろう?』『逮捕されるのでは?』という伝言ゲームに発展していき、逮捕説になったと思われます。
※これはあくまで高橋名人の仮説です
この『高橋名人逮捕説』のすごいところは、ハドソン本社がある札幌から始まり、数日で沖縄まで広がり、1週間後には海外から問い合わせが来るほどになったことでした。
インターネットが普及していない1980年代に、口コミでここまで噂が広まるのは異例であり、高橋名人の当時の知名度と人気を物語っています。
ファミコンブーム後の高橋名人——mixiとブログ

理由は、『もう1回高橋名人のブームを作ろう』というハドソン社内でのプロジェクトが始動したためです。
ファミコンブームの後にはPCエンジンなどに関わっていましたが、表舞台ではなく宣伝部でパッケージやマニュアル作成を行なっていました。
文章を書くのが苦手だった高橋名人は1度は断りましたが、どんなに短くてもいいとハドソンスタッフに説得され、mixiとブログ上に1日合計4回投稿していました。
文章というよりは、今のTwitterのように、つぶやきのような形でお昼ごはんなどを載せていたところ、この頃のレトロゲームブームの影響もありどんどん人気が上がっていき、mixiではマイミクが上限の1000人を超えてしまいました。
投稿を始めてから15年経った今でも、1日も休まず毎日続けています。
現在ではテレビやニコニコ生放送の出演、イベントの司会など、ゲームを取り巻く環境が変わった今でもゲームに関わり続けています。
ちなみに高橋名人がスキンヘッドにした理由は、バイクに乗るときに髪の毛が乱れずに楽だからだそうです。
スキンヘッドのプロの僕はこう思った
今回高橋名人を取り上げてみて、ゲーム業界に40年以上関わり続けていることに驚きました。
サイクルが早いゲーム業界において、第一線でここまで活躍している人は少ないでしょう。
ゲーム業界に入るきっかけは、友達に誘われた面接で受かることによって決まりましたが、その後の活躍は高橋名人本人の努力によるものです。
断れなかった状況にあったとはいえ、イベントに登場してゲーム解説することで『高橋名人』が誕生したり、文章が苦手なのにmixiを始めてマイミク上限に行くなど、本人の意思ではないですが、与えられた環境でどうするかを常に考えた結果だと思いました。
これは自分にも当てはまります。
自分は派遣のエンジニアとして24年で14社回り、自分がやりたいことではなくそのときにオファーがあった派遣先に行き、その環境の中で常に考えながら成果を出してきましたので、とても共感出来ました。
皆さんも今の環境のせいにせずに、与えられた環境の中でどうするかを考えるきっかけになったのではないでしょうか。