1. TOP
  2. INTERVIEW
  3. 「ただのハゲでは希少価値がない」俳優・来栖光之丞が語る、よく死ななかったなと言われる人生。【前】

「ただのハゲでは希少価値がない」俳優・来栖光之丞が語る、よく死ななかったなと言われる人生。【前】

「クローズZEROに出演していたスキンヘッドの人がいる」と、友人から1本の電話があった。

加えて、めちゃくちゃ尖ってる人とのこと。
映画に出演した経験だけでも一般人からしたらかなり興味深いエピソードだが、尖っているとはどんな方なのか。

彼の名は、来栖光之丞。
この光之丞(テルノジョウ)という名は、消費税増税記念で変更したばかりの、ハゲのテイストを入れた芸名だそう。

彼はプライベートでヅラを被り、電車に乗り、汗を拭うためにヅラを取る。
そして周囲の驚きながらも見てはいけない…!という反応を自らの実験により楽しんでいるというのだ。

どんだけ面白い人なんだと驚愕した。ただ、彼の味はそこだけでは語れない。

彼の髪が無くなるところから与えられてきた影響やその人生についてノンストップで語っていただいた。


シンディという相棒


白いシャツだと目立つから襟の中にしまっておいたんですけど出てきちゃいましたね。
頭に毛が生えないのに首から毛が生えるってどういうことやって思うんですけども。

目を凝らして見るとわかる、シンディ

とりあえず伸ばしています。

これは3代目のシンディ。
初代から名前をつけていて、初代がセバスチャン、2代目がジェニファー。覚えなくていいですよ(笑)
この毛、ばかばかしくて好きなんです。

僕は『誰かの初めてになりたい』という欲求がある。
こんな長い毛が首から1本生えてる男に出会うのって初めてじゃないですか?

ハゲは最近、世の中に増えてきちゃって。

つるっぱげにしたのは28年前の16歳で、その地域では僕だけだったし、28年前はあまりいなかったんですよ。
だけど今は本当に増えてきてしまって、ハゲだけだとただの普通のハゲ。
希少価値がなくなってしまいましたね。

それだと何も面白くないんだけど、1年前に初代が首から生えてきたんです。
頭に毛が生えないおかげで神様が首に毛をくれて、今は7センチ。

TBSの『モニタリング』という番組に宇宙人役で出たことがあるんですけど、宇宙人だったので銀色にメイクしてくれたんです。
銀色に塗ったときは気をつけてたけど、多分落とす時に抜けてしまったんでしょうね。

ギネスの記録が20センチで、挑戦しているけどなかなかそこまでいかない。

Lost of my hair


元々、円形脱毛症なんです。
13歳の時、中学校入学の時くらいに10円ハゲができちゃって。
お袋から聞くと、3〜5歳くらいの時にも1度なったけどすぐ元に戻ったらしいから気にしないようにしていたんですけどね。

ただ、野球部で坊主にしてたから、まあ目立つ目立つ。
友だちは結構いじるんですけど、僕は陽気なハゲだったから友だちにいじられても20円にならないといいよね、と言っていたんです。

ただ思春期というのもあって女の子が苦手で。
女の子になんでハゲてるの?って言われると傷つくんですよえ。笑って誤魔化すんですけど着実に心の傷になる。

最初に10円ハゲができてから、2つ3つ4つと増えて、病院に行って注射と赤外線治療をしたら中学校2年生くらいの時に全部治ったんです。

でもまだ安定していないから通ってくださいとお医者さんに言われ、そのまま病院に通っていました。

そんなある時、お風呂に入っていたら水が溜まってきちゃって。なんだと思って排水溝見たら毛がびっしり。
「なにこれ!?これは俺の毛なのか!?」ってびっくりして、それから2日目、3日目も同じようになって、気がついたら後ろの毛がこぶし大くらいごっそり抜けていたんです。
病院通っていたけど前よりひどくなっちゃって、病院が怖くなりました。

中2の終わりくらいには髪を伸ばせるくらいになっていて、中3まではなんとか誤魔化せたんです。

こう見えて実は高校1年生の時、僕のファンクラブがあったんですね。校門で女の子が待っていたりして。
後ろハゲているけど隠しているから周りからはわからないですから。

ただ僕、女子が苦手なのと、バレてはいないけどハゲていることと、若いのもあって不器用だし、興味ないからって寄せ付けないようにしてたんです。

でも高校1年くらいの時、前から結構抜けてきちゃって、隠しきれなくなったんですよ。それがすごくショックだった。

そしたら僕に好意を持っていた女子とかもひそひそと「あの人病気?」とか言うんですよ。
それがまた、すごいちっちゃい声で言ってるんだけど聞こえるんですよ。
そういうのですごく追い詰められちゃった。

勝手な言い分ですけど、僕からすればファンクラブ作ってくれとも、好きになってくれとも言ってないのに、勝手に盛り上がって。
すごく勝手だけど嵐に巻き込まれたような感じだったんですよね。



それでだんだん追い込まれちゃって、髪もどんどん抜けてきた。

スキンヘッドに踏み切った過去には2人の友の存在があった

当時は男気とか言って、「お前がスキンヘッドにするなら俺たちもするから」って言ってくれた友達が2人いたんです。
俺は明るく振舞ってハゲていることをギャグにもしていたけど見ている人からすると痛々しく見えてきつかったみたいです。
このままだと毛を全部失うんじゃないかという恐怖が一番きつくて、その怖さがずっとありました。
しかも16歳の一番かっこつけたい時期に。お風呂で毛が抜けていくのもトラウマになっちゃって。

ただ僕は逃げ続けるっていうのが性に合わないんですね。逃げ続けるならくらいならバーンと前に出て行きたい。

そんなときに、俺もやるよって友だちが言ってくれて、じゃあって3人で床屋に行ったんです。
本当にいいのか?って聞いて、当たり前だよって言ってくれるのを繰り返しながら。

床屋での話はもう笑い話なんですけどね。

じゃあ俺からいくよと床屋さんにお願いしたら、床屋さんが何度も聞いてくるんです。

床屋「・・・本当にいいんですか?」
来栖「覚悟決まってるんで!」

ジョリジョリジョリ・・・

床屋「本当にいいんですか!?」
来栖「もうやってるじゃないですか!」

もう剃ってるのに何度も聞いてくるんですよ(笑)その問答がある中、だんだん露わになっていく僕の頭を2人が見ていて、

友達「・・・俺たちもやった方がいいんだよね?」
来栖「まあまあ、でもやるんだよね?」

スキンヘッドってバリカン入れたあとに剃るんですけどその時ついに2人とも涙流してて。

来栖「嫌だったんだ!?ごめんな!バカだねお前たち!」

そんな友だちのおかげでスキンヘッド生活がそれから始まるんですね。

その頃は眉毛があったけど、やんちゃだったからちょっとずつなくなって生えてこなくなっちゃって。
一緒にやってくれた友だちは、他校の生徒だから通っていた学校にはスキンヘッドは俺1人なんですね。

期末試験の時に眉毛もなくてつるっぱげで学校に行って、その時結構目立ったんだけど、自分から飛び込んで行ったおかげて、怖くなることはなくなりました。

『失うかもしれない』という不安が自分を一番苦しめていたんです。
『毛がない事実』ではなく、『なくなるかもしれない』という憶測や恐怖が僕を苦しめていた。

全部受け入れたら恐怖がなくなって、どう生きていくかという対処に変わりました。

すごく楽になりましたね。

好奇の目に晒される


楽になったけど、注目は浴びますね。

だけど、小さい頃からそうだった。

父親がアメリカと日本のハーフなので、僕の髪も茶色だったんです。
地元は埼玉の川越なんですが当時ハーフとかあまりいなくて、「ママ、あの子、外人」ってスーパーとかでも指を差されました。

幼稚園に行っても馴染めなくてどうしても意地悪をされるんです。
僕はそういうので黙ってるタイプじゃないからやり返していたんだけど、そうしていくとどんどん相手が増えていく。
だけど参ったと降参するのが嫌いな子供だっから絶対降参しない。大勢相手のときも。

あとで紐解いてみたら僕には僕の理由があったけど、周りからの僕の印象は『乱暴ですぐに怒る』。僕の言い分としては、「俺何もやってないじゃん。いつも仕掛けてくるのそっちじゃん、いつも大人数で来るじゃん」って感じだから小学校では友だちができなかったですね。

母子家庭というのもあって母は働きづめで家にいない。
兄弟は僕と違ってあまりハーフっぽくなかったせいか、友だちがたくさんいるタイプで、兄弟も遊びに出ていて家にいない。

学校でも家でも誰もいないから、ひとりで一生懸命、『北斗の拳』の模写して将来漫画家になるのを考えて過ごしている毎日でした。

そんな小学校3年生の時夢に、白いひげに白い服のザ・神様が出てきて「もう暴力を振るうな」と言われたんです。
今でも鮮明に覚えていて、それを機に絶対に暴力振るわないと決めたんです。

それで2年間我慢していたら、5年生の時に友だちが2人できました。やっと寂しさと縁が切れるようになった。

そしたら、中学校入った時に脱毛症になっちゃった。

いつも指差されてたのが、やっと友だちができて楽しくなると思ったのに、脱毛症になって、ハゲ、ハゲと言われて、

「なんでなんだろう?なんで俺ばっかり。世界で一番俺が不幸」

って思うようになって、それが僕をおかしくさせました。
周りもみんな大変なことはあったと思うんですけど、そんなことを考える余裕もなかった。

特に授業参観がすごく嫌でした。親がいないか、来たとしても片親。
それで人を羨ましがっちゃう。羨ましいだけならいいけどそれが恨みに変わっちゃう。

「なんだあいつら、幸せそうな面しやがって。こっちはそれどころじゃない」
「お前ら全員地獄に落ちろ。幸せな奴ら、絶対許さねえ」
人の幸せに敵意剥き出しで、極端なタイプだったんですごく強く人を恨みました。
笑って歩いている人を見るだけですっげえ腹が立つ。
それくらいになっていました。

家族との関係と苦しみ



小さい頃、正月だけ親父が帰ってくるんですよ。

実は両親は離婚していたんですけど表向きは単身赴任。
それを知らない当時の僕はある正月に、「パパ、いつになったら一緒に暮らせるの?」と聞いたんですね。
そしたら親父が「3年くらいかな?」とぽろっと言ったんです。
「3年したら本当に暮らせるの?」と念押しして確かめて、「暮らせるよ」と言われたのをずっと覚えていました。

 


誰にも言わず指折り数えて3年経った正月、何ヶ月も前からすごく楽しみにしていました。
いつもだったら正月が終わったら兄弟と母親とで親父を見送るけど今年はこの後も一緒に暮らせるんだと思っていたら、いつもと変わらず「お母さんに迷惑かけるなよ」と家を出て行ったんです。

あの約束は僕以外、覚えていなかったんですね。

その瞬間、僕の中で何かが壊れました。
本当にそれだけを頼りに生きてきて、一番信じていた親父に裏切られた。何も救いがなくなった瞬間でした。
子供ながらに、『もう信じられる人っていないんだ』と本当の孤独になりました。

それが7歳か8歳くらい。
辛すぎてあまり覚えていないけど辛かったことだけは覚えてます。

いいこともあったんですよ。家族みんなで1年に1回旅行したこととか。でも嫌なことの方が僕に影響を大きく与えていて、いいことはあまり覚えていない。

でも3年生の時、さっきお話ししたように夢に神様が現れて、本当に孤独の中闘って、
でも暴力をやめる、嫌がらせされても我慢するんです。

今思えばよくある話というか、大したことないというのもわかるんですけど、どうしてこんなに神様はいじわるなのかと、その時の絶望はすごかったです。色んなことが受け入れられなかった。

学校に行くと男友だちの前では明るくてめちゃくちゃ楽しいし、中学に入ったら友だちはいっぱいできました。学校の友達の前では大丈夫な様子にしている、大丈夫ではないんだけど。

でも家に帰ると辛くて辛くて。

家に帰ると「死ぬんだ、死のう」と思って、自分でタオルで首絞めて気絶して寝てました。
死ぬ気もなかったんでしょうけど、結局死ねなくて。
そうしないと生きれなかった、そういう衝動だったと思うんです。

でも家族にも見せたくなかったから、狭い家で4畳半に家族で寝ているところ、みんなが寝るまで待ってゆっくり首にタオルを巻いて絞めてました。

僕は喧嘩とかになると負けたことはなかったから、自分は強い人間だと思ってたんですけど自分が死のうと思ってできなかった時に、自分は本当は弱い人間なんだなと知りました。

その後も色々あるんですけどそういうことを繰り返していって、自分が本当に弱い人間だということを段々と理解したんです。
体は強いかもしれないけど本当の本当の本当は弱くて死ぬこともできない。それに気づいた時に初めて人の痛み、悲しみに目を向けるようになった。

それまではできなかった。
自分の悲しみと苦しみにだけフォーカスしていました。
人が苦しかろうが悲しかろうが関係ない。自分は自分の世界の中心で1番苦しんでる。

でもやっぱり自分が弱いとわかった時に初めて人の苦しみがわかるようになった。
そこから自分の人生が少しずつ変わっていきました。


高校中退



高校は中退したというか、辞めさせられました。

学校は毎日通っていたけど、すごい奇抜な格好をしすぎていて授業を受けさせてくれないんですよ。
自分で言うのもあれですけど勉強はできて、奇抜な格好をしているくせに点数がいい。
当時、多分先生が僕のことを辞めさせたかったんだと思うんですよ。だけどやめさせる術がない。学校には来てるしテストの点数もいいから。

だから授業が受けさせてないってルールにされたんです。
先生は「お前がちゃんとした服装をしてこない限り授業を受けさせない」と言って、僕は「ふざけんな。ここ軍隊か!俺は人と同じのは嫌なんだ」と応えて、職員室に毎日のように行っていました。

「俺はこの日本の教育は納得がいかん。もっと人間ていうのは自由であるべきだし人と違うことこそが個性なんじゃないか。俺は人と同じ制服を来ているのが納得できない」と言う僕に、「じゃあなんでこの学校に来たんだ、だったらよそ行け」と当たり前のことを先生は言ってくるわけですよ。そういうわけのわからない押し問答をずーっと毎日やってて名物みたいになっちゃいました。

授業中みんなが授業しているところを1組から10組まで教室のドアをガラッと開けて、B’zの歌を歌って授業を邪魔したり。
そんなことしてると授業に出席していないという扱いになるんですよ。だからテストの点数はよくてもオール赤点になる。結果、3学期全部オール赤点。

僕みたいなテストの点数はよくて赤点じゃないけど留年と、本当に点数悪くて赤点の留年みたいな人もいる中で僕だけ免除にするわけにいかないから追試をさせてくれるんです。
追試に受かったら進級できますと言われたから、60~70点でクリアのところを、これだったらもう100点くらいだろうというくらいにめちゃくちゃ勉強してやったんです。

追試は5教科やらされて、電話で追試の結果が来たんですけど、「ほとんどよかった。英語だけ赤点だった」と言うんです。
納得いかなくて、自分で答え合わせさせてくれと言ってもさせてくれず、それでも折れずに訴えたら親と一緒に学校に呼ばれました。

そこで、「あなたはうちの学校で勉強させられない。進路を変更してください」と言われるんです。



—まさにドラマのような人生。
続きは10/16(水)。
就職の大変さ、明るい理由について触れている。



モデル:来栖 光之丞 俳優 / カメラマン:和嶋れみ / インタビュアー:高山 

記事のご意見・ご感想はツイッターにて #ハゲリシャス をつけて投稿してください。
お待ちしております。

Share
Twitter
Facebook

カテゴリー

オススメ記事

死にかけた頃から、映画出演まで。俳優来栖光之丞の壮絶な人生【後】

もっと見る

ハゲに似合うファッションとは?

もっと見る

薄毛を個性にする男たちのスタイルカタログ|NOHAIRSをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む