みなさんこんにちは。
スキンヘッド歴16年の太田政晴です。
バリカンの坊主を経てスキンヘッドになってから、現在は週に2回、年間で100回頭を剃っています。
今回も今までの検証とは違い、スキンヘッドのプロと言っても過言ではない私が、スキンヘッドの有名人の自叙伝のレビューをしていきます。
その有名人は、俳優、映画監督の『竹中直人』さん。
自叙伝のタイトルは『役者は下手なほうがいい』(NHK出版新書)
今回もスキンヘッドの有名人の自叙伝のレビューを書くので、とても楽しみです。
竹中さんと言えば『笑いながら怒る人』。一体どういう意味なのでしょうか。そして俳優から映画監督になるまでにどんな経緯があったのでしょうか。とても興味が湧きます。
スキンヘッドの有名人の生き方や考え方を掘り下げ、少しでも役に立つレビューを書くために読んでみました。
竹中直人さんの経歴
生年月日:1956年3月20日生(64歳)※2020年12月現在
出身地:神奈川県横浜市
職業:俳優、映画監督、タレント、コメディアン
主な俳優作品
- シコふんじゃった。(1992)映画
- Shall we ダンス?(1996)映画
- 秀吉(1996)TVドラマ
主な映画監督作品
受賞歴
- ヴェネツィア国際映画祭 国際批評家連盟賞
無能の人(1991)
- 日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞
シコふんじゃった。(1992)
EAST MEETS WEST(1995)
Shall we ダンス?(1996)
映画ばかり見ていた——役者に憧れた理由
両親が週末によく映画館に連れて行ってくれた影響で、小学生時代の竹中さんは映画スターに憧れていました。
加山雄三さんの『若大将シリーズ』、ショーン・コネリーの『007シリーズ』は特によく観ていたそうです。
中学生から高校生にかけては自分で選んで映画を観るようになり、ニューアクション映画にはまります。
特に西村潔監督作品に出てくる役者さんが個性的で、一度見たら絶対に忘れられない顔だったそうです。
竹中さんはこのとき、役者という職業に強く興味を持ちました。
しかも10代の竹中さんは団体行動ができなくなるほど極度の人見知りだったので、自分ではない人物になれるということも憧れを抱いた理由の一つだったようです。
また『燃えよドラゴン』のブルース・リーに衝撃を受け、ものまねをするようになります。
これがのちに芸能界デビューのきっかけとなるものまねの原点になります。
そして高校生のとき、8ミリカメラに出会います。
すでに映画や俳優に興味を持っていた竹中さんは、文化祭で上映するための作品を作ります。
上映時間は5分と短いですが、このときの作品が竹中さん自身が初めて作った映画ということになります。
これでますます映画や役者にのめり込み、美術大学に進学すると、映画演出研究会に所属して8ミリ映画をたくさん作るようになります。
実際の映画のパロディや、好きなミュージシャンをモチーフにした作品を撮っていました。
ただ学園祭に向けて映画を作ったらそれで終わりでした。その作品をコンペで関係者に売り込むことはせず、フィルムの保管もせず、多くの人に観てもらうこともしませんでした。
笑いながら怒る人の誕生——そして芸能界デビュー
竹中さんは大学生時代に色々なことをやっていました。
それは、素人が参加できるTV番組に友達が応募することから始まります。
その番組は『ぎんざNOW!』のコーナ『しろうとコメディアン道場』です。
そこで好きな役者のものまねやパロディなどで注目を集めて5週連続チャンピオンになり、それがきっかけで他の素人勝ち抜き番組にもたくさん出るようになります。
ちなみにこの時に披露した『笑いながら怒る人』は、映画演出研究会で『首振り地蔵の怪』というショートムービーを撮っていたときにできたものです。
地蔵役の竹中さんが通行人に「なんか人間みたいなでけぇ地蔵だな」とバカにされたときに、「ふざけんじゃね、このヤロー!地蔵バカにするんじゃねぇ、このヤロー!」と首を振りながらニコニコしながら怒ったのがきっかけです。
大学卒業後は劇団青年座の研究生になるも20万円の授業料が払えず、途方に暮れていたところ、渋谷のパルコの『3分間で人を笑わせたら賞金20万』というイベントに参加し、優勝して授業料を一括で支払うという快挙を成し遂げます。
そして劇団の研究生から準劇団員になるも、舞台に立つこともなくエキストラの日々を送っていました。
これではダメだと一念発起して、大学生時代に出ていたTV番組のつてを頼って色々なプロデューサーに会いに行きます。
そしてTV番組『ザ・テレビ演芸』のコーナー『目指せ笑いのニュースターホップステップジャンプ』で3週連続チャンピオンになり、それがきっかけでプロデビューを果たします。
竹中さんが27歳のときでした。
芸能界への違和感——知る人ぞ知るという存在
プロとしてデビューしたものの、いきなり注目されて怖くなりました。
妙に明るい芸能界に自分を合わせることができなかったそうです。
それでも映画やテレビドラマに呼ばれるようになり、色々なプロデューサーや監督に会うことにより、役者としての実力をつけていきます。
森崎東監督『ロケーション』の撮影のときに、ある一言を言われて衝撃を受けます。
「余計な芝居をするな。竹中のままでやれ。」
(本書・P.66より引用)
幼少の頃から自分に自信がなく、何か変なことをやってごまかして生きてきた竹中さんにとって、素の自分を受け入れてくれた監督の一言に感動します。
そして五社英雄監督『薄化粧』の撮影のときには、何度もNGを出したらにこう言われました。
「ようござんす、ようござんすよ。兄貴さんのまんまでようござんすよ。」
(本書・P.70より引用)
演出や役づくりがどうこうでなく、NGを出しても許してくれる監督の包み込むような愛を感じ、こういう監督の元でやることが俳優にとって一番大切なことだと気付かされます。
その後も途切れることなくTVドラマや映画の仕事が続いていき、ついに竹中さんが全国的に知れ渡る作品を作ることになります。
映画監督デビューから役者として認められるまで
その後映画つながりでプロデューサーの奥山和由さんと食事をした際に、「そんなに映画が好きなら、1本撮れば?1億円出してやるよ」と言われ、『無能の人』で映画監督デビューします。
原作はつげ義春さんの漫画で、大学時代からずっと同作のファンだった竹中さんは、映像化することを決意します。
このとき、竹中さん自らが主人公を演じますが、妻のモモ子役には「風吹じゅんさんしかいない」と思い、自ら出演交渉します。
以前共演したことのある役者さんへ自ら出演交渉できることは、役者から映画監督になった竹中さんだからこそできることでした。
原作の漫画を忠実に再現したことにより、つげ義春さん本人も驚くほどの作品に仕上がってます。竹中さん自らナレーションを行い、「僕、無能ー!」と最後に叫ぶのがとても印象的です。
そして竹中さんの転機となった出演作品が、『Shall we ダンス?』と『秀吉』です。
竹中さん自身も、この2つが世の中に認められた作品だと言っています。しかも同じ年(1996)に話題になった作品でした。
『Shall we ダンス?』では主演の役所広司さんの会社の同僚役を演じ、『秀吉』では主演の豊臣秀吉を演じます。
認知度でいうと知る人ぞ知る竹中さんでしたが、ヒット作に出演したことにより役者としての地位を不動のものにします。
「そろそろヒット作に出ないとな」と思っていても、なかなか巡り会えない俳優の方が多い中、自分にそのチャンスが巡ってきて本当に驚いたそうです。
ちなみに『Shall we ダンス?』がヒットしていた頃に娘さんと映画館に行き、後ろからおばさんに、「ちょっとあんた、並んでんの、並んでないの?」と怒られたそうです。自分が竹中直人だと気付かれなかったことで、自分のオーラの無さを実感したというちょっと悲しいような面白いようなエピソードもあったそうです。
役づくりとは?——無能の人として生きる
竹中さんは、役者の条件として、このように言っています。
「よく『役づくり』なんて言葉が使われますが、何年経ってもそんなものは絶対に出来る訳がないと思う。」
(本書・P.120より引用)
脚本には書かれていないことや、現場で役者と役者が向き合ったときに生まれる空気が大切です。
そしてその空気は計算では絶対作れないので、いかに共演者とスタッフの関係性が大事かを訴えてます。
なぜなら、いきなり他人同士が夫婦や親友になることは本来ならあり得ないことです。それを役として演じるためには信頼関係が必要だと竹中さんは考えるからです。
「ぼくには基本的に、人格がないと思います。いまだに自分が何だか分からない。子どもの頃からずっとそうだった。」
(本書・P.188より引用)
劇団員が合わない、バラエティの現場が合わない、芸能界への違和感、デビューしてもネガティブのまま、役者として自信を持ってやったことがない。
これは竹中さんが今でも「どうせ俺なんか」という思いが常にあるからです。『無能の人』として生きると言っています。
それでも子供の頃の夢であった役者になり、自分ではない人になれることに幸せを感じているそうです。
スキンヘッドのプロの僕はこう思った
今回竹中さんの半生を振り返って気づいたことは、竹中さんは『知る人ぞ知る』という存在が好きだということです。
全ての人に認めてもらうよりも、少数派でも認めてもらえれば十分満足できることもわかりました。
竹中さんが有名になったのは、出演作品が話題になったからですが、それ以前から映画監督やプロデューサーや他の役者さんなど、良い人間関係を築いてきた結果だと思います。
もちろん役者としての実力があってのことですが、人との出会いを常に大切にしてきたからこその活躍だと思いました。
僕の中で竹中さんは役者の中でも『ひょうきんな人』というイメージでしたが、実は自信がなく、不安を抱えていたことに驚き、そして常に謙虚であることが分かりました。
僕自身は『全ての出会いに意味がある』と思っていますので、常に出会いを大切にしてきた竹中さんに共感するとともに、間違っていなかったことを確信しました。
同じハゲ族として誇りに思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

